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1. 加味壁きょうだい


 鶏が告げるのは、人間さまの目覚めの時間ではない、と加味壁林史(かみかべ りんし)は常々思っていた。午前四時や五時にけたたましく鳴かれても、爺さん婆さんの目覚ましにしか、なりはしない。だからこそ、朝も暗いうちに弟妹たちを起こすのは気が進まない。下の妹はまだ七歳だ。可哀そうなことをしている自覚はある。
 水汲みがてら顔を洗い終えて庭に出れば、まだ薄暗かった。眼鏡についた水滴を振ってから右袖で拭い、足元の視界を確かめる。三月も末というのに、日陰には霜が降りていた。雪冠を抱いた吾妻連峰は、白いその縁に強い朱色を滲ませている。
 薄闇のまだ涼しい階段を昇りきってすぐ脇、左手で障子を開ける。
 十三歳の弟がいびきをたて、コーギー犬が脚に頭を載せているのが目に入った。寝乱れた布団がめくれかえっている。大声で、
「起きろ、起きろ。じいさんの墓参りだぞ」
 と叫んでみたが、全く反応がない。一度起こしたのにもう熟睡だ。これが若さか。
 飛び起きてまとわりついてきた犬をいなしつつ、林史は屈んで弟の肩をゆすった。こうして見ると昔の自分に憎らしいほど顔が似ている。
「んん………眠いぃ」
「だから昨日は早く寝ろっていっただろう」
 片手で転がすようにして、弟の布団をはいでまとめる。寝惚け眼で枕元の厚い本に手を伸ばした弟が、家族にしか分からない笑みを浮かべてまた眠った。この寒いのに本さえあれば幸せらしい。
「コラ起きろ」
 足で小突きながら溜息をついて、顔を巡らせると窓を開ける。ほのかな豆味噌のかおりがした。国営放送のニュースらしき音も階下から届いてくる。
 どうやら、林史が顔を洗いに行っている間に朝食を準備してくれているらしい。
「次朗、起きろ。あゆちゃんに笑われるぞ」
 その名を出すと、次朗が途端に目を開けて半身を起こした。中等一年の弟は、まだ背が小さい。切れ長の目をしょぼしょぼとさせて、パジャマのまま立ち上がると障子に激突して転んだ。

 ちなみに「あゆちゃん」とは朝告げの雄ニワトリの名であり、けして弟の好きな少女などではない。

 もう中等生なのにそれでいいのか動物おたく、と悩みながらも兄は弟が着替え始めるのを確認して、犬のコクマロを抱きあげた。尻尾をはち切れんばかりに振っていたのが控えめになり、代わりに赤い舌をべろんと出してせっせと喉元を舐めている。生温かい。
 軋む階段を下っていけば、妹ふたりがテレビを見ていた。香奈はまだ七歳、無理もないがこくりこくりと船をこいでは重力に負けている。瀬戸菜(せとな)は料理の途中なのか、おたま片手にエプロン姿だ。それほど熱中してはいなかったらしく、兄の気配にはすぐ気づいた。
 瀬戸菜は十七になったばかりだ。左目を覆うように肩まで伸びた褐色の髪は傷を隠して、足は引きずりながら、それでも彼女はカタバミのように小柄で笑うとあいくるしい。彼女が加味壁家に引き取られたのは林史が十四歳、瀬戸菜が五つの時だが、その頃からあまり喋らなくても、林史は彼女のことが良く分かった。
「また事故か」
「父さんのところじゃないけどね。人、死んだみたい」
 彼女は兄に妹を預けると、居間から続きの台所に立ち、朝食の仕上げに戻った。軽快に蕪の葉を刻み、仕上げの吸い口代わりにと小鍋に散らす。テレビ画面に顔を戻すと、事故の説明もそこそこに記者会見のようすに移った。
 数十年計画で雇用回復を一手に担う暗闇の空、月面の建設工場は事故が多い。
 事故でなくとも、宇宙(うえ)に出稼ぎに行く労働者たちの労働災害は際立って発生率が高い。怪我や死亡、障害ならば補償されるからまだ良いのだが、病気については各国で対応の差があり議論が延々続いている。とある有名大学が何かしらの論文を発表したとかで、ニュースでは連日、宇宙放射線による疾病の有意性について特集が組まれていた。
 バカバカしい話だ。宇宙での労働は給金が高い代わりに癌や白血病の罹患率も非常に高い。そんなことは、テレビに出てくるお偉いさんでなくても重々承知だ。それでも大航海時代を経て独立戦争に勝利して、二百年前のアメリカ大陸が希望の新天地に見えていたように、庶民はリスクを恐れない。誰もが宇宙での新生活に夢を見る。今や二十代から五十代までの半数以上、富裕層と欠格者を除けば実に七割以上の男性が月面基地絡みの仕事に就いているのが、その証だ。
 林史が二十代後半になっても地球にいるのは、宇宙に興味がないわけでも金があるわけでもなく、事故で失った右肘先のせいだった。これでは宇宙に渡ったところで学歴もない林史には大した働きなどできない。欠格者は国策により農業に従事するか(補助は出る)、田舎の教師あたりが関の山だ。富裕層以外の人間で、地上(した)に残っている成人男性はそんなやつらばかりであり、概して顔つきは暗かった。
 宇宙空間における労働を禁じられている者たちは他にもいる。放射線の影響が大きいとされる未成年、抵抗力の弱い高齢者、障害等で働けない人間、出産可能性のある女性エトセトラ。稼ぎ頭を失った家庭を支えるため、女性も働きに出ることが多い。仕事のない田舎では残る子どもら(と、もし居るのなら祖父母)で家を守るのが一般的だ。加味壁家もまさにその典型だった。
 幼い弟妹を抱え、母の仕送りと自身の僅かな給金で生活を守りながら――林史は時折考える。まるで授業で習った戦時中の光景のようだ、と。世界史で習ったのと映画で見ただけなので想像することしかできないが、子どもらと老人だらけの片田舎で暮らしていると、想像力ばかり膨らんでいく。これじゃ宇宙人が攻めてきたら守りの手薄な地球は壊滅だな、しかしその時、敵の背後、月から決死の特攻隊が……等と今朝もくだらないことを考えつつ(男の性だ)、犬を下ろし香奈を手招き膝に乗せた。両手で抱きあげられれば良かったが、残念ながら腕が足りない。
 お決まりの放射線測定値の値を経て、地球上の中継局に切り替わるとニュースは後半だ。先日、母の勤めている工場が出た時は録画して皆で繰り返し盛り上がったものだが、そんなことはめったにない。今朝は「SNS会社の株急落」に、「通信会社の収賄」「女優の離婚」「世界一周、鳥の変わった鳴き声」というコラムのようなもので締められて天気概況に切り替わった。最後のニュースが気になったのか、次朗が図鑑を抱えて階段を駆け下りてきたものの最後の段を踏み外しかけて堪え、派手に尻餅をついた。
 外では無口な弟の醜態に笑いが抑えられずにいると、ぽこんと牛乳パックで上の妹に叩かれる。
「兄さん、手伝わないならあゆちゃんたちに餌あげてよね!次朗も階段は走らない」
「はいはい」
「はーい」
「あーい」
 半覚醒の香奈までが、つられて小さな手をあげた。残った腕で彼女を撫でてニュースの音を遠く聞く。
 手薄な家庭を守る欠格者でも構わない。林史が波穏やかな日々を送れるのは、ひとえに支えるきょうだいたちがいるからだ。






2. 昆虫記と動物記


 次朗はいつでも突然、思い出したように林史のところにきて、脈絡なく話を始める。
「コクマロのあくび、俺のに伝染するんだって」
「いきなりなんだ」
 林史はバケツに雑草の束を放り込んで、頬の土を拭った。気がつけば春も盛り、家庭菜園だけの加味壁家でもやるべき仕事はいくらでもある。里村さんちの畑仕事を手伝っていたはずの次朗が、ここにいる理由は問わない。里村の婆さんは夜早いので、大抵この時間には仕事も終わる。
「犬はさ、飼い主につられてあくびするんだ。仲がいいとさ、眠いって気持ちも伝染するんだよ」
「続きも聴いてやるからホースを持ってこい」
「うん」
 素直に頷いて次朗は水場まで戻り、緑の筒紐を引いて帰ってきた。日の傾いた空、山の端に淡く滲む赤が、薄藍色に溶けていく。堀の土手はなだらかに長く、ちろちろと流れる細い流れはこの季節、水量が豊富だ。
 手と靴の泥を流しながら、ついでに首のタオルも絞る。あらためて巻き直すと冷たかった。
「まぁ、人と人でも眠いという気持ちは伝わるしな。一緒に暮らしてるから、犬も人に似てくるのかな」
 そう言うと弟が兄を馬鹿にしたような目で見た。次朗はことさら、大声をあげて囃したてたりはしないからこの年頃にしてはまともな方だと思っているが、この勝ち誇ったような目はどうだろう。自分もこの年頃の経験者だから覚えがあるが、若干神経を逆なでしてくる。気にしても仕方が無いが。
「気分が伝染するのは人間だけじゃないよ。鳥だってそうだよ」
「へえ」
 茜の雲にアァ、アァー、とカラスが鳴きながら連れだって西出山へと帰っていく。沈む陽の逆光になればまるで絵本の挿絵だ。もっともあれはカラスじゃなくて雁だったかと思い直しつつホースを巻き巻き片づけて、鳥影に夢中な弟の元に戻った。
 食い入るようにカラスの帰山を見つめていた次朗は、電線に、林と神社に、と視線を移動させつつ、ようやく隣に並ぶ兄を思い出したようだった。
「あれさ、山に帰っていく前も、全員が『帰ろう』って気分になるまで待つらしいよ。決めるまでぐるぐる飛んだり鳴いたりしてさ、皆が同じ気分になったらようやく帰るんだって。それに、飛ぶ鳥の声につられて、飼っている鳥たちが一生懸命飛ぼうとすることもあるんだよ」
 物静かな瞳が、この時ばかりは少年らしく炭火のように、だけれど赤々と確かに輝く。
 昆虫記や動物記、動物行動学の入門書。次朗にとって生き物たちの世界は子どもの頃の遊びだけでは終わらずに、次々知識の水を飲んでいく。黙々と本を読み、捕獲した昆虫を四苦八苦して飼おうとしては失敗し、次朗の世界はいつまでも鮮やかであり続ける。街の高等学校にも入れてやりたいところだが、このご時世、食べていくので精いっぱいだ。母もいつ、厳しい立ち仕事ができなくなるか分からない。貧乏家庭の男が学歴もなしに宇宙に行かず地上に残って仕事をするのに、研究職など夢のまた夢だ。次朗にはまだ現実のなんたるかを話すことは出来ないけれど。
「ちなみにペンギンはあくびで求愛してるんだ。だから俺が眠い時は兄ちゃんや姉ちゃんに対する愛情表現なわけ」
「お前はペンギンじゃないだろ」
 額を小突くと、小生意気な弟が肩を竦めて、まあね、と冷静に呟いた。






3. アオムシコマユバチ

 瀬戸菜には、可愛がっているものに「あゆちゃん」と名付けるくせがある。
 大抵は花か小動物だ。引き取られてきた時に抱いていた金魚のぬいぐるみもそうだったし、小火(ぼや)でぬいぐるみが燃えた後のお気に入りは庭隅のタンポポだった。そして、お気に入りのものが壊れたり枯れたりした時に、瀬戸菜が必ず行う儀式が、裏の小川で行う「おそうしき」だ。「あゆちゃん」と「おそうしき」は基本、対の関係になっている。
 初めてタンポポを水葬したときは、十六歳だった林史もずいぶん変なことをする子だな、と思ったものだが、十年経ったらもう慣れた。あの頃七つだった瀬戸菜が、七歳の妹の手を引いて卵をお裾分けに行くのだから時の流れは早いものだ。
 瀬戸菜の「おそうしき」は独特だ。
 「あゆちゃん」の一部(たとえば花弁や葉を一枚、もしくは髭を数本)を食んで、お祈りをしてから裏の小川に水葬する。花ならまだしも、対象が動物の時は、なんとも声をかけられない。当代の「あゆちゃん」は裏に飼っている雄鶏だが、次朗が『有精卵食ってるし羽は喰わなくてもいいんじゃないの』と今から姉を説得しているところだ(検討を祈りたい)。
 傷だらけでガリガリに痩せ細りすべてに怯えていたあの頃からずっと続けているその行為が、どうして始まったのか、林史は聞かない。聞けないといった方がいいのかもしれない。

 ――ただし、一度だけ。
 「一口食む」、という行為はやめた方がいいんじゃないかと、話してみたことがあった。
 毒のある植物だって少なくない。ましてや動物の毛や一部など、感染症の危険もある筈だから、と。
 その裏にある意図を察して、大人びた十六歳の妹はサンダル履きの足許を見た。蟻たちが行列をつくっていたことを、そこに木漏れ日が落ちていたことを、なぜか林史は今でも鮮烈に覚えている。
「……そうしないとね。なんか、だめなの」
「やめろとは言わんよ」
 それが瀬戸菜にとって大切なことなのは分かっていた。だから、結局のところ「言ってみただけ」になるのだろう。林史にとって互いの距離を測るにはその質問が適切だっただけかもしれない。瀬戸菜は初夏の日差しの下で隣り合うと眩しいくらいに膝小僧が白かった。
「わたしが鈍感だからかな。壊れちゃったんだと思う、そういうところ」
 縁側からすぐの家庭菜園に丸々と育った春キャベツを、指差しながら妹の声はあくまで明るかった。
「前に、次朗があそこでとってきた青虫のこと、憶えてる?」
「ああ。……きつかったな」
 ある日、『青虫が蝶になるのを見たい』と言って次朗がキャベツ畑の青虫をとってきた。さぁいつになれば蛹に、と、きょうだい皆(と、まだ生きていたじいさん)で楽しみに待っていたところ、――青虫の腹を割って、うぞうぞと黄色い小虫が這い出してきたのだ。トラウマである。次朗はクールに『だめか』と呟き公民館図書室に出掛けて行ったが、あまりにショッキングな光景だったのでその後の経過は見なかったし敢えて原因も聞いていない。
 林史の顔色を見て、瀬戸菜はころころと笑った。
「兄さん、真っ青だったもんね。弱いんだから」
「それがどうした」
「次朗に聞いたの。アオムシコマユバチっていう、蜂がね、蝶の幼虫に子どもを産むんだって。するとね、青虫は自分で思う通りには動けなくなるの。一杯ごはんを食べて、丸々育って、でも最後には蜂の幼虫たちが青虫の中身を食べて外に出てくるの、あんな風に。兄さんはあの後見てなかったけど、お腹を食い破られた青虫はね、それでも蜂の幼虫のために死ぬまで働かされてたんだよ。甲斐甲斐しく世話して繭をつくって……バカみたいだった」
 気の早い蝉が鳴いていた。蟻の列には大きな蟻が途中から混じり合い、どちらの獲物なのか良く分からなくなっていた。
「……それも特別なことじゃなくて。青虫じゃなくても、カタツムリやハエや猿なんかもね、寄生されると、気づかずに天敵の前に進み出てしまったり、雄と雌が分からなくなったり、ごはんを食べすぎたりもするみたい。おかしいよね。自分で自分が分からなくなっちゃうのかなぁ」
 首を傾げてにっこりと、少女は白い光に目を染めた。梢にそよぐ風で砂利が遊び、遮られた太陽が雲のまだらを雑草だらけの地に映す。
「でも、わたし思うんだ。きっと気づいてもどうしようもないんじゃないかな。蝶になれないって知ってて、どこから来たかも分からない知らない生きものがいつの間にか身体の中に入っているのに、彼らのために動いちゃう。食べるものも全部取られて、身体を喰われて、性格だって変えられて。でもどうしようもないんだね。一度寄生されたら、きっと死ぬまでそうなの。初めて見たときは、黄色い幼虫たちが許せないって悲しかったけれど、蜂だって一生懸命なんだって、次朗の話を聞いて思ったの。そうやって自然はみんな生きようとするんだね。だから、……わたしはもう自分のためには生きられないけれど、これからも好きなものを少しずつ身体に入れて、せめて好きなもののいいなりになりたいの」
 林史は義妹の俯く横顔を見た。裏木戸から流れる小川の行きつく先、南の稲荷神社の上でカラスたちが電線に群れて止まり陽気な声で鳴いていた。
「昼飯でも食べようか」
 瀬戸菜は兄のことばにめずらしく淡い目つきで微笑んで、食卓用に初夏の鮮やかな花を摘む。

 分校の職員室で握り飯を頬張って、はしゃぐ生徒たちを遠目に見た。寄生した蜂の幼虫たちもまた、青虫が鳥に捕食されれば無事に成虫になることはできないという。無事に蝶になれる青虫は一割にも満たない。花壇を、茂みを、蝶がひらひらと、花から花へ舞いうつる。
 あれ以来、キャベツ畑を通るたび、白い蝶を見かけるたびに、彼女の横顔を思い出す。






4. ななつのこ

 大沢分校からの帰り、梅雨の晴れ間が見えた畦道を、次朗と並び、香奈を肩車して歩く。香奈は学校が大好きだが、内弁慶の次朗は集団行動が苦痛らしく、下校中は不機嫌だ。可哀そうだが仕方がない。「先生」の家族が学校をさぼっていれば、「来なくていいのだ」ということになってしまう。
 香奈が肩の上で嬉しそうに歌っている。次朗はもくもくと歩いているが、いつもよりは幾分機嫌がよさそうだ。これまで雑事があるからと先に送り出していたが、たまに一緒に帰ってやるのもいいものだな、と加味壁の長男は空を仰いだ。
「かーらーすー、なぜなくのー♪ からすは、かってでしょー♪」
 中々上手だが、歌詞が違う。
「カラスは山に、だ」
 苦笑して、長くのびる影にふと、カラスの群れが連れ立ち西出山上空に飛び交っているのを見た。電線に群がっていた筈が、あっという間に黒い影を夕空に点々として舞い上がり、奇妙な声で鳴いている。春先だったか、弟の話を思い出して砂利を踏んだ。
「票決、だったか」
「んー?」
 次朗が鞄をつまらなそうに振る。
「カラスのこと? そうだよ。あいつら、全員一致で気分が盛り上がって、票決が出てから、ようやくああして帰るんだって」
 冷静なふりを装っているが、瞳が先よりも輝いている。話したことを覚えていてもらえたのは嬉しかったようだ。中学生は扱いが難しい。
「家に帰るだけで何十分も考えていたら疲れないか。帰るなら帰るでよかろうに……」
「しかも数十羽だしね。世界中の鳥でやったら、一個決めるだけでも一年くらいかかるよ」
「何決めるんだよ世界中で」
 突っ込むと、弟はわざと深刻な顔をしてから、ふっと遠い目をして笑った。
「………」
 格好良いつもりだろうが子どもっぽいんだ、その仕草は、弟よ。大人になったら分かるぞ。
 林史は居た堪れなくなって目を逸らした。過去の自分に顔が似ているため、恥ずかしさは倍率ドン更に倍だ。頭上からは可愛らしいメロディーがふんふんと夕焼け雲を追っている。
「からすは、やーまーにー、かーわいい、なーなーつの♪こが、あるかーらーよー♪」
「コラ、あんまり動くな」
 首をふりふり、器用に歌う。片手で支えるアンバランスな肩車は、乗り手の協力がないと非常に危ない。が、何度注意されても夢中になるくらい、香奈は歌が好きだった。眼鏡がずれているがこの体勢では直せないので、林史は諦めがちに溜息をついた。
 自宅が見える。三軒手前の、里村の婆さん宅からは煮魚の匂いがした。台所の窓から目が合い、肩車のまま不器用に会釈をする。おちゃめな里村婆さんは両手をアイドルのようにひらひらと振った。
「かーらー…。お兄ちゃん、続き、なんだっけ」
「可愛い可愛いとからすはなくの」
「かわいー?」
「……そう、可愛…」
 蛙の鳴き声が折々重ねて田に満ちる。水路の先、稲荷神社の木陰は闇に沈んで蛍の光が瞬いていた。夏至を過ぎたばかりの日暮れ前に鈍い茜の光は沈み、ビニールハウスの白布から徐々に照り返しが薄れていく。夕風に吹かれて、犬を連れ。加味壁家の門の前に、瀬戸菜が出てきて手を振っていた。引きずる右足などないかのように、伸びあがって空をつかむように手を一番星の宇宙に向けて。
「兄さん、次朗、香奈ー!お疲れさま、おかえりなさーい!」
「かわいーとー?」
「可愛い、可愛いとなくんだよ」
 香奈の無邪気な問いにそっと呟き返してから、次朗の背を叩く。弟は無愛想な声で、「ただいま」と答えて口だけ笑った。

 鳥影が、茜に染まる中天に、数珠つなぎのまま西出山に吸い込まれていく。甲高い声で、なきながら。






5. 願い笹

 加味壁林史が事故に遭い、右腕を失くしたのは十代最後の年だった。
 こつこつ続けた努力が実を結び、市内の工業専門学校に進学できた矢先の事故だった。誰の責任でもない。ただの不幸な偶然の集積による事故であり、強いていえば事故防止の取り組みが万全ではなかった学校のせいかもしれないが、関係者の何れにも法的な過失はなかった。歳の離れた編入生の見舞いには誰も来なかったし、入院代もかさみ、持て余す右肘先の幻痛に耐えきれずに、高専は辞めざるを得なかった。
 何度目かの手術を終えて最後に医師の説明を聴きながら林史が悟ったのは、この先――大多数の地球人が目指す舞台へ敷かれた階段に、自分は永遠に踏み出すこともなく、地上(した)で空を見上げ続けるだけなのだ、という事実だった。しとしとと葉を打つ梅雨明け前の薄暗い窓辺に座り、上手く食事もひとりで出来ない入院生活の中、気が狂うほど繰り返した祈りは届かなかった。
 それ以来、林史の中で宇宙への憧れは消えたのだ。願い事が叶うなどとは期待しない。この世界は自分に手の届かないはるか上空で美しく回転する小惑星のちらばりだ。塵の集積もガスの渦も、彼にとっては田畑を渡るわらべ歌の如く農民の疲れた脚を慰める、遥かな過去の残響に過ぎなかった。
 事故に遭った日にも雨が降っていたせいなのか、どうなのか。眠りの底で、寄せる波のように年に一度は思い出したくない記憶が蘇る。
 浸る水田を、葉を打つ雨を、車窓から無感動に眺めていた出戻りの一両列車、効き目の薄い天井の扇風機がかき混ぜる生温かい風。赤ん坊を背負って仕事に出ている母の代わりに、駅で次朗の手を引き出迎えてくれた、その冬に死んだ優しいじいさん、裏木戸に寄りかかる痩せっぽちの妹。どこもかしこも湿気の濃い、ぬかるんだ靴跡だらけの田舎道。手伝おうとしても絞れない雑巾。梅漬けの瓶。布団から抜け出たと思えばまた夢の中、薄暗い病室、貰って来た子犬、父の残していった荷物の中身、錆ついた電源と重機。虫食いの映像が目の裏を熱して立ち消え、夢かうつつかと目覚めては忘れたかった日々が瞼を頭痛で貼りつかせて壊れたメモリはノイズを交えて夢を歌う。目の裏が熱い、目の裏が、……

 屋根を打つ雨音が、頬を冷やして目が覚めた。
 障子紙の闇は藍色に滲み、高い位置にある小窓から、夜明け前特有の薄ら明かりが部屋全体を淡く照らしていた。早朝からぴちちと小鳥の影が複数横切り光が陰る。石の色が染まるそれで外は雨かと知る如く、窓の位置から林史は自身の状態を意識した。
(いつもの、あれか)
 普段は次朗と一緒の部屋に寝ているが、熱を出したときには母の寝室に隔離される。母が出稼ぎに出てからも律儀に続く習慣だ。
 年に一度、林史はこうして熱を出す。まるで呪いだ。梅雨の終わりになると、林史の身体が忘れるなとばかりに悲鳴をあげて身体のスイッチをぱちんぱちんと音を立てて落としていく。靄のかかった天井と数日語らえば何事もなかったかのように回復はするのだが、毎年毎年、来ないでほしいといくら願っても意志に反して起きられない朝がやってくるのだった。うだる吐き気に揺られ、右肘から先が戻ってきたかのような錯覚にいっときの希望を抱いたのもつかの間、夢の中でも機械に押しつぶされる痛みが蘇り意識を苛む。
 三日三晩を苦しんで、ようやく正気が戻ったのだろう。霧の晴れない意識にたゆたい、夜明けの気配にあらためて薄目を開ける。人影程度しか分からないはずの明かりの元、寝息を立てる気配に林史は額を覆った左手の甲をずらした。
 長女が隣に長座布団をしき、柔らかな肩だけ見せて毛布をかぶり伏して寝ている。眼鏡のないぼやけた視界では定かではないが、気配だけでもそれと分かった。夜明け前に起こすのも申し訳ないと、自身に言い聞かせて目を閉じようとしたが、なにかが引っ掛かり首を巡らす。違和感の原因が視界に映る色だと気づき、その正体を察して林史は小さく笑った。
 移動させた視線の端に、さらさら俯く何かが揺れる。頬に当たるほど近くにあるそれは、七夕の願い笹だった。枕元の柱にガムテープでたどたどしく留めてあり、浅葱色の短冊には「おにいちゃんがはやく元きになりますように」とマジックペンで書かれている。くっきりした色に大きなひらがなで書かれた文字は、眼鏡なしでも判読可能だ。香奈の字で間違いない。

 胸に満ちたものは暖かさと同時に、おかしさだった。香奈は、ガスや鉱物の発光体が、人の願いを叶えてくれると信じているのだ。もっとも、信じているのは香奈だけではない。子どもたちは皆、大人たちでも、月面基地ができる今でも流れ星に願いをかけるのだから。

 腕を失くして、ようやく体力的にも精神的にも働けるようになり、大沢分校の小学校教諭として勤め始めて数年後。とある冬に、「しし座流星群を見る」授業を有志の生徒を集めて行ったことがあった。
 保護者同伴だったので、小さな分校校庭は運動会並の人であふれていた。
 東北は初雪の頃で、とても寒かったが香奈は顔を真っ赤にして喜んでいたから、幼くともきっと覚えているだろう。
 無数の隕石、燃え尽きる星々、邪気のない子どもらの身勝手でいとおしい願い事。月面基地の建設事業が始まったのは香奈が産まれてすぐの頃だったから、星の海に汗を流す父の無事を祈る声も少なくなかった。香奈も無邪気に連絡も仕送りも寄越さない父親の無事を願っていた。いつ、父が女と逃げたのだと弟妹たちに話すべきかと、林史は関係のないことを考えていた。
 見逃したと騒ぐ子どもらを励ますたびに、蟻地獄の砂のようにさらさらと暗い穴の底にはがれおちていくものがあった。あの時は、まだ傷が癒えていなかったのだろう。つまり、今の心持ちは、少しだけ違う。

 星に願いをかけるのは、かけられる身になると悪くないものだった。

 瀬戸菜に気づかれないようにそっと、身を起こして眼鏡を探す。雨音が薄れていたのを感じていたが、カーテンを引いてみれば黒雲は半ばが吹き散れ、切れ間のむこうは晴れていた。藍色が濃い。梅雨明けが近いのだろう。
 不意に光が陰る。雲かと思えば鳥影だった。
 こんな時間に、帰巣でもあるまいに珍しい。

――世界中の鳥でやったら、一個決めるだけでも一年くらいかかるよ。

 なぜとは知らず、次朗のことばが脳裏によみがえった。
 ある鳥たちは集団で行動を起こすにあたり、『群れの気分が充分に高まるまで』特有の鳴き声で鳴き交わし、鳴き交わし、集団行動に至る「票決」までに長い時間がかかるのだと話していた。
 彼らは一体、どんな気分を共有したくて鳴いているのだろうか。

 日が昇る。雲の合間に光の泉が湛えられ、小鳥の鳴き声とカラスたちの羽音ばかりが雨樋の水音に混じる、静かでつめたい朝だった。






6. 星のかけら

 次朗が朝餉前からずっと、裏手の鶏舎前に座り込んでいる。
 塩むすびとお茶を盆に乗せて、勝手口から消えた瀬戸菜が、空のお盆をうちわ代わりにサンダルを脱ぐ。一緒に戻ってくるかと半分期待していたが、瀬戸菜は後ろ手にノブを引いた。
「仕事あるのになぁ、もー」
「待つしかないだろ」
「兄さん次朗にあまーい」
 悲しいのは次朗だけじゃないんだから、と抗議してくる妹は作業用のTシャツにジーンズだ。皿拭き中の香奈の脇で、残りご飯を鬱憤晴らしにと握りだす。香奈も思い出したのか、口を閉ざすと手の甲で瞼を擦った。
 先週、鶏たちがキツネにやられた。
 野生動物の襲撃はたまにあることなので、めげてばかりもいられないが、いきなり全滅はさすがにきつい。精神的にも家計的にもだ。五羽いたうちの一羽が食料として運び去られ、他の四羽も首を噛まれての全滅だった。雨続きのせいか鶏舎の壁板に穴が開いており、そこから侵入されたらしい。しかも、連れ去られた一羽がよりにもよって「あゆちゃん」だったので瀬戸菜も「おそうしき」のしようがなかった。
 次代の「あゆちゃん」が何になるかは分からないが、次朗の説得は意外な形で功を奏したことになる。しかし瀬戸菜はああ言っているが、実のところ林史は瀬戸菜にも大概甘い。鶏舎に残っていた名札の紙を食み食みして顔をしかめ水を飲んでいるのを見たが、敢えて咎めず黙っている。
 何にせよ、林史は次朗の心配などしていない。あの弟は、家畜の死にただ悲しむばかりのタマではない。経験上、こういうときの次朗は、何も考えていないように見えて、かなり大切なことを考えている。

 ようやく東北でも梅雨が明け、入道雲の季節になった。
 まだ朝なのにじーわじーわと蝉の雨はひっきりなしで、立っているだけでもたちまち汗が噴き出てくる。
「予想以上だな……」
「雑巾足りないかも」
「何の糞だろ、カラスっぽいけど」
「キラキラしてるねー!」
 里村さんちの鳥糞まみれなトラクターを四人きょうだいで観察し、上から順に発言したらこうなった(次朗は時間になったら準備を終えてついてきた)。
 腰の曲がった里村の婆さんが、どうもねえどうもねえ、と麦茶の盆を縁側に置いて挨拶し踵をみせる。盛夏の農作業は朝の涼しい時間帯におおよそ済ませてしまうため、お茶目な婆ちゃんは少々早い昼寝の時間だ。
 里村さんの息子は山向こうで養鶏場を営んでいる。新鮮夏野菜と、不要の鶏を優先的に譲ってもらえる権利をかけて、鳥の糞まみれになった農耕車の掃除を引き受けるのは当然だった。冬の雪かき、夏の草取り、春と秋の雪囲いと、力仕事は若者が担当する、それが現代日本の不文律。働かざる者食うべからずだ。
 作業自体は単純だ。軽く全体に水を掛けたあと、濡れ雑巾で二度拭きし、もう一度乾いた布で仕上げをする。赤いトラクターにしみついた白い糞を拭きとると、ガラスの粉にも似た汚れがべっとりついた。
「ねえね、ウンチなのに白くてすっごいキラキラしてるよー。なんで、なんで?」
 雑巾を絞る役目の香奈が、背伸びしながら瀬戸菜に声をかけている。敢えて口は挟まなかった。根っからの理系である次朗とは違い、香奈が求めているのは科学的な答えではない。仕事の退屈を紛らわす「物語」だ。
 こういう時、瀬戸菜は子どもの夢に話を合わせるのがとてもうまい。「タンポポのあゆちゃん」といい「おそうしき」といい、想像力が豊かなのだろう。林史は話を聴くことしか出来ないが、瀬戸菜は話で楽しませることができる。香奈もそれを分かっているから、林史ではなく姉に訊くのだ。
「鳥さんはねー、雲に憧れて飛ぶから白いんだよー。でね、人間は土の上を歩くから、茶色いウンチなの」
「じゃ、じゃあね、じゃあね。キラキラしてるのはどうして?」
「星のかけらを食べたから。前に、分校の校庭で流れ星を見たの憶えてる? きれいだったよねえ」
 顎を上向けて、遠い目をした瀬戸菜の前髪が、夏風に弱く揺れた。背中の毛先は首元で濡れタオルに張り付いている。
 頬の汗を左腕で拭い、林史はそのまま仕事を続けた。蝉の雨に負けない長女の声は涼しげに耳にしみる。
「あのときね、このあたりにも小さな星の屑がたくさんたくさん落ちたんだよ。とってもきれいで、お日様みたいに光ってたんだけど、でもほら冬だったじゃない? すぐに雪が降って隠れちゃったのね。でも、春になって……」
 いったん休憩と、車の赤い屋根から伝い降りて、手袋を外すと瀬戸菜は縁側の麦茶をこくこく飲んだ。屋根の庇、日陰と日なたの境目にいて頬にじっとりと汗が光る。
「春になってー?」
「春になって雪が溶けて、冬の間お腹をすかせていた鳥さんたちはもうびっくり。お天道さまと同じ場所から落ちてきた星のかけらは身体を温めてくれるから、まだ寒い時期だったし、最高の御馳走だったの。と、いうわけで、せっせ、せっせと星のかけらを食べた鳥さんたちのウンチは、こんなにキラキラしてるわけ。おしまーい。はい雑巾ちょうだーい♪」
「はーい、新しいぞうきんでございまーす」
 仲睦まじい姉妹に背後の弟がしらけている。水汲みを終えてから、ぼそりと兄にだけ聞こえるように呟いた。
「病気じゃね、ふつーに」
 理系と文系の相容れなさは無常だ。林史は苦笑して雑巾洗いを弟に任せた。足首に冷たい水が跳ねてしみる。
 次朗の言うことにも一理はある。鳥の糞は確かに食べたものによって色が変わるが、普段と糞の状態が違ったのなら警戒に越したことはない。病気の可能性も充分あるし、伝染性の何かだった場合はここら一帯の鶏舎でも、予防と注意が必要になって、くるのだが。
「しかし、キラキラね。何か知ってるか」
 動物博士に水を向けると一瞬言い淀み雑巾を渡してきた。
「糖尿かも。……俺も写真とか見たわけじゃないから違うかもしんない」
「そっか。町内会に報告してみるわ」
「うん」
 次朗が水を汲みに行く。林史は空を仰ぎ、それから妹たちを視界の端に見た。瀬戸菜の優しい世界に、宇宙はどのように映っているのだろう。
 ちらちらと光る水溜り、木漏れ日と蝉の合唱。稲は青々と盆地の色を夏色に染めて蛙を飼い、足元のくっきりした影、姉妹の笑い声、翻る右の袖口。耳を塞ぐいのちの盛りの真下にいて、錆びの赤いトラクターを前景に、鴨が水田を群れて泳いでいた。 

「あのさ」
 前触れなく、背中から声がかけられる。林史は眉一つ動かさずに振り向いた。水を汲みに行ったはずの次朗が、少し離れて静かに兄を見据えている。学校で集団から一人離れて本を読んでいる時と、同じ目だった。林史は眼鏡の奥の目を細め、口を緩めた。
「どうした?」
「うん……。えっと。俺がテスト勉強してた間、鶏舎の世話をしてたのは兄ちゃんだろ」
「ああ」
 先週は中等部の期末テストが近かったのと、三日も寝込んで家事を任せきりにした償いに、鶏の世話とコクマロの散歩を林史が代わっていたのだ。この夏で背が伸びてきたかななどと関係ないことを考えつつ、言葉の先を促すと次朗は言葉を探し探し、俯きながら呟いた。
「兄ちゃんが、本当に、壁の穴には気づいてなかったのかなって思って」
 林史は頬を掻いた。やはり次朗は、自分よりも頭もいいし、勘がいい。瀬戸菜たちをちらと見遣って、彼女たちに話が聞こえないよう木陰に誘うと、素直についてきた。木陰は涼しく、積乱雲の白が空とのコントラストで眩しい。
「気づいてたわけじゃない」
 もちろん嘘だった。穴が開きそうなのを、知っていて放置した。
 弟が俯く。
「いつもは絶対気づくのに、なんでさ」
「病み上がりでぼうっとしてた。自分から代わったのに、悪いと思ってる。……あいつらにも、おまえらにも」
 これは、半分だけ嘘だった。
 これでよかったと、どこかで思っていたからだ。
 弟は唇を噛み、樹の下に立った兄に強い足取りで近づいた。
「でもあの穴、自然に腐って板が剥がれた感じじゃなかった。外の網はキツネが確かに食い破っていたけど、鶏舎の周りは穴を掘って潜った痕もなかった。でも俺が世話してた時は、そんなこと」
「だから、兄ちゃんがわざと穴を開けたと思ったか」
 兄の苦笑いに、突然、無茶な理屈だと自覚をしたのだろう。決まり悪げに弟は頬を赤らめた。
「いい推理だが、残念ながら理由がないな」
「………ごめん」
「違うよ。俺は、そんなことはしない」

 緑の木擦れを仰ぐと、弟の肩を叩いて仕事に戻らせる。
 林史はひとつ嘆息し、言わなかった真相に思いを馳せた。

 穴を開けたのは林史ではない。
 これは本当だ。


 死の待つ扉を開けたのは、喰い殺されたあゆちゃん自身だったからだ。






7. 票決

「母さんが帰ってくるぞ」
 分校隣の役場でメールを確認させてもらい、帰宅して開口一番伝えると、歓声があがった。ここ数年のテレビ映画は宇宙進出を反映してか、映画もスターウォーズや宇宙戦争等、ジャンルがSFに偏っている。今晩はE.T.をやるらしい。五十年以上前の映画だが、映像はどんなことになっているのだろうか。分かっているのか分かっていないのか、コクマロが足元に尻尾をぶんぶん降りながらじゃれついてくる。可愛らしいが真夏は暑い。
 瀬戸菜が鍋から顔をあげる。
「今年は帰ってこれるんだ?」
「正月は駄目だったからな、無理かと思ったが、電力制限の関係もあるらしい。一時的に減産体制なんだとさ」
「おかあさんは、いつ?いつなの?」
 同じ場所を何度も台拭きしながら香奈が叫ぶ。勝手口から次朗が顔を見せた。この前のことがあってから、少し弟とは距離がある。林史は顎を撫ぜてから、決めた。
「次朗」
「ん?」
「後でちょっと話そう」
「……うん」
 夕食を終え、瀬戸菜の片づけをある程度手伝ってから香奈を寝かしつけ、勝手口から裏に出る。流し台で明日の朝食を仕込んでいる瀬戸菜が、「よく分からないけど頑張って」という目で台所の網戸越しに手を振った。
 鳥一匹いない鶏舎に踏み出せば、雲ひとつない空に星屑が広がっていた。

 おかしな鳴き声で叫ぶ鳥の群れを撮った動画がブームになったのは、いつの頃だったからだったろうか。
 少なくとも春先には、国営放送でも特集を組まれるほどにはなっていた。

 瀬戸菜の俯く横顔を、思い出す。
 (他の生き物のために、性格なんかも変わっちゃうけど、でもそれに気づかないんだって)
 (雄と雌が分からなくなったり、ごはんを食べすぎたりもするみたい)

 明け方に鳴かなくなった雄鶏は、正常だといえるだろうか。

 病み上がりの「しずかな夜明け」から一週間、鶏の世話はすべて林史が行った。テスト時期だからと理由をつけて、次朗には勉強をさせていた。
 毎朝夜明け前に起きて耳を澄ませたが、あゆちゃんは明け方も夜も鳴かず、時折雌鶏によく似た仕草を見せた。瞳を覗き込むと普段と僅かに色が違い、鶏舎の壁板を思い出したようにつついては崩していた。つついては、落ち着かなさそうに空を見てはばたき、聞いたことのない声で鳴き、苛立ってまた壁をつついていた。数日して、雌鶏たちもそれに加わりだした。次の日には、少し離れた田の中で鴨たちが羽ばたき、鶏たちの鳴き声に呼応して会話のようなタイミングで似た音節で鳴き始めた。
 鴨などどこにでもいる、鳴いたのは偶然かもしれない。あゆちゃんの目の色は光の錯覚だったのかもしれない。どの鶏たちも餌は普段以上によく食べよく動き、羽もきれいで糞も正常、それ以外にぱっと見変なところはなかった。獣医師を呼ぶと金がかかる。処分すべきか相談すべきか迷っているうちに、たまたま、キツネの害にあったのだ。

 瀬戸菜に聞いた話のように。
 鶏たちが、寄生されていたとしたら、それは「何」に寄生されていたのだろうか。
 今この時、鳥たちの中で、おかしな動きをしているのは鴨と鶏だけなのだろうか。

 戦時中並に手薄な地球。
 白い糞がキラキラしているのは、星のかけらを食べたから――

 いくらなんでも、我ながらばかなことをと首を振る。映画の見すぎだ。気のせいだ。
「兄ちゃん、話って何。忙しいんだけど」
 細い灯りが漏れて、勝手口から無愛想な弟が現れる。
「もしかして、姉ちゃんと結婚したいとかいうんじゃないよな」
 どこかで皿の割れる音がした。林史は頭を抱えた。
「やかましい」
 溜息を押し殺して、裏木戸から水路脇の畦道へ出る。夏の夜風は柔らかで、鈴のような虫がころころ鳴いている。

 林史はタンポポの鮮やかに黄色くあるはなびらを食んでみようとは思わない。昆虫記も動物記もまともには読んでいないし、人前で歌うことも苦手にしている。使える片腕を否応なしに拘束される飼い犬の散歩も、もう帰らないだろう父の部屋の掃除も、電話越しに母をなだめるのも墓掃除も、一度ならず面倒だと感じたことがある。
 然れど生きるにあたり林史にとっての守るべきものは、今ここにあるすべてだった。

「いろいろ、最近考えていることを話すよ。鶏の件も含めてだ。だいぶおかしな話になるが、たまには兄貴の話も聞いてくれ。……でもまあ、その前に。お前に聞いておきたいことがある」
「うん」
「次朗、お前、進学したくないか」

 人の願いも祈りも、無数の生命が等しく抱く生存欲には何らの関係もない。その欲求は、きっと地球上の生物だけに限らないのだと林史は思う。不穏な予感が気のせいに過ぎなかったとしても、いつか生存権を賭けて争う日々はやってくる。林史にできることは、未来に進むべきものに、未来を見せることだけだ。


 あとは祈るしかない。

 気のせいでなかったとしたら、その時は。
 羽ばたくものたちの票決が、我らにとって優しい意志であることを。




END




票決 INDEX

(C)isuzu 2012




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【参考文献】
『ソロモンの指環』(コンラート・ローレンツ/早川書房) p.67-"5.永遠にかわらぬ友"
『春のかぞえかた』(日高敏隆/新潮社) p.77-"鳥たちの合意"
『昆虫 摩訶ふしぎ図鑑』(見山博/保育社) ネジレバネの記述
『動物たちの気になる行動(1)』(上田恵介・佐倉統編/裳華房) p.116-、p.140-
『人間の土地』(サン=テグジュペリ/新潮文庫) p.211-p.212

※あくまで参考であり、小説用にかなり曲解して流用しています。すみません!※
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