+ポケットにチョコ・バーを+







不思議でした。
それはとても不思議なことでした。
夜の六時過ぎに家を出た私は、ふらふらと(なんとなく目的は持っているものの)街の方へ歩き出しました。
どうも調子が出なくて、困っていたころのことです。
理由もなく悲しくなったり、気持ちにもやがかかったり、そんな日が続いていました。
その日はとても寒い日でした。
こたつで食べる蜜柑がなくなったので買いに行かなければならなかったのと、生活費が足りなくなってきたので銀行の機械から少し引き出してこようと思ったのです。
それから、どこかにゆっくりと座って、一杯のコーヒーが飲みたかった。
ちょうどものすごくおもしろい本を読んでいる途中だったので、あたたかくて静かな喫茶店で続きを読もうと思ったのです。
ああ、なんて寒かったのだろう、あの日は。
外に出て鍵を掛けると、はく息がもう真っ白で、私は体を震わせました。
ATMで八千円おろすと、私は自然と街の方へ足を向けました。
電気屋に行って、いろいろと欲しいものの下調べでもしようと。
それに、確かレンタルビデオのあの店が、割引の曜日だった気がしました。
それで、歯をガタガタいわせながら広い道路を横切り、狭くはないけれど静かで控えめな、そんな道をいつものように駅に向かって歩いたのです。
私はコートを着てマフラーもつけ、手袋だってしていたのですが寒くてたまりませんでした。
ひゅるひゅるいう風が体に当たるたびに、首の隙間から入って体中をぐるぐる回るみたいでした。
もう道は暗くて、私はさっさと蜜柑を家の近くの雑貨店で買って、帰ってしまおうかという気にもなりました。
けれど折角ですし、このところ塞いでいたから気分転換にビデオでも借りるんだと自分を景気づけました。
そして、私はあの店の前を通ったのです。
その店には一度入ったことがありました。
喫茶店です。
どこかの系列の、チェーン店だったのでしょう。(なぜならコーヒーが300円台だったから。)
木製の枠組みに透明なガラスがはめ込まれていて、中の暖かい光が漏れていました。
入り口の外にはプレートが置いてあって、おすすめのコーヒーやメニューが書かれていました。
私はコーヒーを飲みに出かけたのだということを急に思い出しました。
入り口のガラスに、営業時間が書かれています。
電気屋を覗いて、友達が薦めてくれた映画のビデオを借りて、それからでも間に合う時間までやっているようでした。
そう思って、通りすぎました。
通りすぎるつもりだったのです。
でも、私は立ち止まって、もと来た数メートルを引き返したのです。
それはとてもコーヒーが飲みたかったから。
そして、黒いカバンの中にいれてきたあの本が、とても読みたくなったから。

そして、その喫茶店に入ったのです。
一番安いコーヒーを頼むと、私は本の続きを読み出しました。
コーヒーが前のテーブルに出されると、それをちびちびと飲みながら、また本を読み始めました。
おもしろい本です。
コーヒーを飲みながら、店の中が暖かいことになぜかその時気付きました。
コートを脱いでいるのにあたたかく感じるのは気分のいいものでした。
後ろでゆるやかにすべっていくオルゴールのメロディーがなんだか不思議と本の中のシーンにマッチしていて、私はものすごく本に集中している一方で、なぜだかほうっと息をつくように頭がほぐれていくように思いました。
それだけです。
あの店でしたことといえば、コーヒーを飲んで本を数十ページ読んだだけ。
特別な喫茶店でも、初めて入った店でも、いつもは通らないような道にある店でもありませんでした。
私は普段喫茶店を出るのと同じように、コートを着てマフラーを首に巻き、カバンの中に本をしまうと、伝票を持って入り口近くのレジの前に行きました。
50歳くらいの女の店員さんに、私は小銭が足りなかったので千円札を財布から一枚取り出して渡しました。
その時、ふとレジの前のほうにおいてあるチョコレート・バーが目に付いたのです。
特別おいしそうだったわけではないけれど、私は自然とそれを手にとっていました。
お金を払って、お釣りをもらって。
小銭を財布に入れながらコートの左のポケットにチョコバーを無造作に突っ込み、店を出ました。

随分とゆっくりしてしまったので、時計は八時を回っていました。
夕飯もまだでしたし、そこで他の店を回るのは諦めて、というよりもうそんな気がおきなかったのですが、私は家の方へと足を向けたのです。
歩きながら、ポケットの上からさっき買ったチョコバーが入っているか触ってみました。
入っている事が分かると、ポケットの中に手を入れて改めてそのおかしを取り出してみました。
おいしそうな、ナッツミルクのチョコレート・バー。
満足してポケットに戻すと、私はまた歩き始めました。
不思議な感じでした。
あれは、本当に不思議な感じでした。
あの瞬間、私はまるでこのチョコレート・バーをポケットに入れているだけで、物語の中の一人の登場人物になったような気がしたのです。
その人は、いつもチョコバーをポケットに入れていて、町を歩きます。
その人は私なのです。
こんな風に歩いていて、チョコバーの感触をコートの上から確かめながら、いつもゆうゆうと歩いているのです。
こんなに嬉しいことってありません。
私は、周りを見渡しました。
相変わらず風は強くて(さっきよりもずっと強く吹いていました)、寒さはいっそうひどくなっています。
人が歩いています。自転車が私を軽やかに追い越して行きます。
空は深い深い青の向こうの黒の色。
不思議でした。
世界が、私がさっきまで見ていた世界ではありませんでした。
確かに、世界は変わっていました。
色がありました。
私はいままでもしょっちゅう空を見ながら歩いていたのに、まるでその瞬間初めて顔を上げて見上げたようでした。
ビルの合間に植えられた木々が、風に押し流されそうに葉のない枝をざわめかせていました。
人の顔がひとりひとり、全く違って見えました。
私は歩き続けました。
心の中の重いものが、嘘のように姿を消していました。
人も道も空も木々も、建物も横断歩道も閉められたシャッターも、すべてが姿を持っていました。
長い長い間、私の目にかぶさっていたものが、魔法のように消えてしまったのです。
それは、本当に不思議な魔法でした。
私に魔法をかけたのは、ポケットの中のチョコレート・バーなのです。
手を当ててその感触を確かめるだけで私はまたすっかり満足し、家路を辿りました。
横断歩道を歩いている時も、私はたくさんの人を見ました。
手を呼びかけるように上げて歩いていたおじさんは、タクシーを見て呼びかけていたのでしょう。
早歩きで私を追いぬいていった男の人は、手に紙の箱を持っていました。
ああ、あれは誰の元へ持ちかえられ、どんな部屋で開けられたのでしょう。
ポケットの奥には、チョコレート・バー。
あんなに不思議な瞬間を、冷たい風に押されて歩きながら感じた心も躍るようなあの気持ちを、私は初めて知りました。
それは、何度もいうようですが、本当に本当に、不思議な魔法だったのです。
夜の街を、吹きすさぶ風に体をすくめながら歩いたあの時間が、ずっと私の中で続きますように。
そしてあの心も躍るような、すべてがすっかり形をなして私の前に現れたあの素晴らしい感覚、軽やかな足取り、命を吹き込まれた世界、それらすべてを杖のひとふりで生み出してしまったあの魔法が、どうかいつかあなたのもとにも舞い降りますように。