「どうやっても、僕は肉体から抜け出ることが出来なかった。」
顔を覆って、泣いた。
ただ泣いた。
ぼくはそれを見ながら黙って隣に座っていた。
雨がコンクリートをぬらす。
水が隙間を縫って溝の下へと流れ込む。
「君は出来たんだろう?僕には出来ないことが、ずっと出来ていたんだろう?どうやったのか教えてくれよ、逃げられないんだ。逃げられないんだよ、雨のように。いくら蒸発してもまた海が川や溝から水を呼んで引き寄せるみたいに、海が肉体なら僕は水さ。」
は!と笑って雨に打たれたまま彼は立ち上がった。
手をいっぱいに開いて雨に立ち向かう。
髪がびしょびしょで、しずくがひっきりなしに垂れていた。
「君は霊魂だ。本来肉体にいなければならないのに病院の白いベッドがいやで逃げ出している、我侭坊主さ。あるべきところにあるのだから、戻ればいいというのに!その点僕はなんだい?あるべきところはこの肉体だというのかい!?君は贅沢だよ、ミスターロンリー。植物状態!?は!お笑い種だね!とっとと戻っていけば良いだろう、一体それで周りがどれだけ心を砕いていると思うんだい。僕は本来、生まれつき、たましいだったのさ。君とは違う。君は生まれつき肉体を持つ霊魂だった。僕はただのたましい。精神的存在だけで内部完結しているんだ。それがなぜだかこの肉体という檻に閉じ込められてしまったのさ。努力はした。調べもした。出来る限りの足掻きはこの十数年やってきたさ!それでも君は、頑張れ、などと僕に言うのかい!?どの面下げてそんなことを僕に言えるんだい!」
先ほど十分に涙を流して充血していた目が、ぼくを睨んだ。
でもぼくは戻りたくない。
彼は知らないのだ。
戻ることが、どんなことを意味するかなんて、知ってもいないのに、ぼくを非難するのだ。
雨は怒りを込めて地面を叩き続けた。
傘を差したお姉さんがぱしゃぱしゃと水しぶきを立ててぼくらの後ろを走り抜けていった。
彼は、しばらくぼくを睨んでいたが、やがてだらんと力を抜いて手を下ろした。
そして、雨と区別がつきにくいけれど明らかに、また涙を流しているみたいだった。
声が震えて、崩れ落ちそうだった。
「だめなんだよ、なあ。ミスターロンリー、分からないのか。僕は一生とらわれの身だ。あるべき場所にすらいないんだ。あるべき場所から逃げ出すなんて、そんなこと夢のまた夢なんだよ。ミスターロンリー、君は違うだろう。僕は逃げたいんだ。自由になりたいんだよ!君の何が自由だ!どんな苦痛があろうと君は、ここにいる限り君ですらないじゃないか!」
「ランド・フェーザニ、それは違う。キミは分かっていない。ぼくは戻った瞬間、ぼくとして扱われなくなるんだ。それが分かるんだ。病院に近づくたび、恐ろしくなる。逃げて何が悪いんだ。キミがぼくより苦しいのはきっとそうなんだろう。でも、自分より苦しい人がいるからって、なんでぼくまで苦しまなければいけない?」
ぼくは間違っているか。
間違っているだろうか?
不意に不安に落ち込んだ。
闇がぼくの前にぽっかりと穴を開けた。
雨が降る。
雨が降る。
止まず降る。
飽かず降る。
開かずの扉を、ぼくはいつ開けただろう。

空は褐色の重さでぼくらを包み込んでいる。




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