/ 日めくりめくり、カレンダー夏キシオ /



 眩しい太陽。蝉のうるさい夏の朝。
 三分の二の薄さになった日めくりカレンダーを剥がしたキシオくんはハッとしました。剥がしたばかりの手持ちの一枚を見つめます。『31』。……目の前に新たに顔見せした数字を見つめます。『31』。八月三十一日のカレンダーが二枚あるのです。
「おや、不良品だ」
 今日から九月。月初の給料日。意気揚々とした出鼻をくじかれて、思いもよらず苦笑するキシオくんです。いいえ、それでも彼はとても前向き。カレンダーの乱丁など初めて見たのですから、これはこれで縁起がいいといえるのかもしれません。薄縁の眼鏡を掛け直し、鼻歌を歌いながらキッチンへ朝ごはんに行きました。
 封を明けたばかりの甘くないシリアル。地元農場の緑色のロゴが書かれた牛乳。いつもの朝食です。
 こんなこともあるんだな。ははははは。職場で隣の席のハルノさんが微笑みます。そんな夢を描きながら、シリアルを食べ終え、皿を洗い、歯を磨いて髭を剃り、ひとつひとつ出社準備を整えました。キシオくんは、美人でよく気のつくハルノさんにひそかに憧れているのです。
 月曜日、九月一日。昨年別れた彼女にたくさんお金を使ったせいで、貯金の心もとないキシオくんにとって「給料日」という響きは心を浮き立たせてくれます。
 晴れた空の下、いつもの道を通っていつもの駅へ。いつも通りの電車に乗って、……と思いましたが、なぜだか電車がやってきません。いつもならスーツ姿のサラリーマンでごった返すホームも、閑散としています。おかしいな。首を傾げているうちに、五分遅れて電車がやってきました。とりあえず乗り込むキシオ君ですが、ぼんやりと違和感があります。通勤時にしては車内が空いているし、不思議と私服の若い子が多いのです。それに、そう! いつも通りなら快速急行のはずが、なんと各駅停車ではありませんか!このままでは遅刻です!
 大変だ。降りるやいなや慌てて駅の階段を駆けのぼったキシオくんは、曲がり角で駅の売店に積まれた新聞を見て、ようやく気がつきました。そこにあったのは、八月三十一日付の新聞。そう、なんのことはありません。電車は遅れたのではなく、休日ダイヤだったのです。謎が解けました。今日の日付けは八月三十一日。まだ日曜日なのです。学生たちは夏休み。会社も休みです。日めくりカレンダーは、寝ぼけて見間違えただけだったのでしょう。
 照れ隠しに頭を掻きながら、念のため駅前徒歩三分の社ビルに歩み寄り、入り口を覗いてみます。受付の奥で、警備員のお爺さんが退屈そうにタバコを吸っていました。
 これで決まりです。二十五歳にもなって、「日曜日にランドセルを背負ってしまった小学生のようなドジ」にいよいよ耳まで赤くなりながら、キシオくんは各駅停車の列車で帰ることにしました。
 オフィス街から観光地へ向かう電車は賑やかに混み始めていました。そうだ、せっかくだから寄り道して行こう。そう決めたキシオくんは、途中下車すると喫茶店でコーヒーを飲み、木漏れ日の影を踏みながら散歩をし、本屋に寄り、お金がないのでスーパーでビール一本と冷凍枝豆を買って帰りました。夕食はインスタントラーメンです。思いもかけない、八月最後の良い休日でした。

 翌朝。
 三分の二マイナス一枚、の薄さになった日めくりカレンダーを剥がしたキシオくんは、またも目を見開きました。剥がしたばかりの手持ちの一枚を見つめます。『31』。目の前に新たに顔見せした数字を見つめます。『31』。またも八月三十一日のカレンダーです。
 いやいやいや。はっはっは。
 なんだかおかしくなったキシオくんは、眼鏡を掛け直すとキッチンへ向かい、昨日開けたシリアルと、パックに残り半分の牛乳で朝ごはんにしました。とんだ不良品のカレンダーだ。まあいい。オチもついたし、ハルノさんへもいい話の種ができたぞ。ネクタイを締め、いつも通りに出社準備をし、いつもの時間に家を出て、いつもの駅へ。
 しかし、やっぱり電車は平日ではなく、休日ダイヤでやってきたのです。
 あとは昨日と同じでした。
 昼すぎにアパートに帰ってきたキシオくんは、みんみんみんと鳴きたてる蝉の声を背負って立ちつくしました。いよいよもっておかしいぞ……、と、思いました。これじゃあハルノさんにいつまで経っても日めくりカレンダーの話ができないし、給料だって貰えないじゃないか。
 そうだ、カレンダーをめくろう。一日一枚しかめくってはいけないという決まりもない。寝室の壁にある日めくりカレンダーに指を伸ばし、ページをめくりました。
 『31』。
 朝です。また朝がやってきました。昼から何も食べずに過ごしたかのように、お腹がぐうぐう鳴っています。
「えっ?」
 キシオくんは目を瞬きました。今、なにが起こったのでしょう? とにかくもう一度、カレンダーをぺりぺりと注意深く剥がしてみました。現れた数字は、
 『31』。
 外は穏やかな朝のままです。
 今度はなんの変化もない、と一安心したそのときです。とつぜんキシオくんの胃はきゅうきゅうと泣きはじめました。吐きそうです。気持ちが悪くなってきました。なんといえばいいのでしょう。そう。例えば丸一日以上何も食べずにすごしたかのよう。お腹がすいてすいてどうしようもなくなったキシオくんはキッチンへ駆け込み、シリアルの中身を最後まであけて、少し変な匂いのする牛乳をたっぷりかけてお腹を落ち着かせました。もっとも落ち着いたのはお腹だけだったのですが。
 トイレから出て、鏡を見てまた驚きます。伸びた髭を剃り終わった頃には、キシオくんの首筋は冷や汗でびっしょりと濡れていました。
 まずいぞ。何だかわからないが、よくないぞ。呟きながら、またカレンダーに手を伸ばします。
 朝です。蝉が鳴いています。爽やかな日射しです。お腹がすきます。胃がきゅうきゅう鳴りますが、一人暮らしの悲しい性で、冷蔵庫にはもう食べるものがありません。インスタントラーメンが二つありましたが、お湯を沸かしているのも惜しい。それに、気になることもありました。仕方がなく駅前に走り、コンビニでパンと新聞を買ってきます。自動ドアの脇に丸められて売っていた新聞の日付けはどれも、一枚一枚広げてみても、すべて八月三十一日のままでした。
 キシオくんは頭を抱えました。それでも諦めません。おそるおそる寝室の壁に近づいて、祈るように、何度目かの日めくりカレンダーをゆっくり、ゆっくりと剥がします。
 『31』。
 朝です、お腹がすきます。財布にお金がもうありません。携帯の充電も切れています。仕方がなく充電器につないでおいて、駅前のコンビニでお金を下ろしてお茶とお弁当を買ってきます。食べ終わったらまたカレンダーをめくります、
 朝です。
 おなかを満たしてまためくります。
 『31』。
 幾度目かの朝です。当然お腹がすきますが、それよりも頭がくらくらします。この感覚には覚えがありました。眠気です。しかし眠っている場合ではないと思ったのでしょう。首を横に振りながら、キシオくんの手が、壁にかかったカレンダーに向けて伸ばされます。数字を確認するのも怖くなって、目をつむって勢いよく剥がしました。
 …………
 ……気がついて顔を上げた時には部屋はとっぷり茜色に沈み、日が傾いていました。ベッドに倒れこんで、眠ってしまっていたのです。だいぶ体の具合がましになったので、キッチンに行きましたが、冷蔵庫はやはり空っぽのままでした。水を飲んで、残り二つのうち片方のカップラーメンを食べました。
 日々を繰り返すうちに、おもに食費のせいで、財布の中身が心もとなくなってきました。
 九月から十二月まで、残り四カ月分あった四角い紙束は、少しずつ薄くなってきていますが、どこまでも八月三十一日の数字しか出てきません。
 キシオくんは一度、どうせ休日だからと割り切って、半ば諦めがちに、ハルノさんを食事に誘ってみたりもしました。ハルノさんは喜んで一緒にイタリアンを食べてくれました。通帳の心もとない残高は一桁少なくなりました。空しい気持ちでした。
 彼女を駅まで送ると、帰途につきました。アパート脇の雑草のあたりで、秋の虫が鳴いています。デートのために引っ張り出してきたたった一枚のおしゃれなシャツが、はたはたと夏の夜風に襟をそよがせていました。
 どのみち、もうお金が持ちそうにありません。だというのにビールを買ってきてしまいました。発泡酒ではありません。ビールです。しかも買い置きのために六本入りの箱買いです。それでいいのでしょうか、キシオくん。もともとあまり意志の強いほうではないのでしょう。靴を脱いで、ダイニングでビールを一気飲みします。寝室から目を逸らすように浴室に消えて、水音をじゃあじゃあさせてから、やがて湯気を立てて戻ってきました。赤ら顔で重たい足を引きずって、ドアを開け、寝室の電気をパチリ。ベッドに腰掛けました。壁には相変わらず日めくりカレンダーが少し傾いてへばりついています。
 あれから、携帯電話も、テレビも、ラジオも、同じ日付の同じ内容ばかりを壊れたように繰り返しています。何時何分だったとしても、カレンダーをめくればすぐ、みんみんみんと蝉がにぎやかに降りしきります。雲はもくもくと、地平線からビルの合間を縫って天を目指しています。
 朝からビールを飲んで、はためくカーテンに入道雲を見ているうちに、ようやく、キシオくんは解決策を思いつきました。酔いと眠気で頭ははっきりしませんでしたが、なんとなく良い思いつきのような気がしました。正直なところ、もうこれは夢だと思いかけていました。こんなおかしな展開、他に説明がつかないのですから。
 話は簡単でした。カレンダーがあるからこんなことになるのです。いっそ捨てるか、そうまでしなくても、残りのカレンダーを一気に剥ぎとってしまえばいいのかもしれません。
 救いの手を見つけたかのように爽やかな表情のキシオくんです。良い夢だった。忙しくてもいい。給料を貰える、仕事もできる。その有難みがようやくわかった。ハルノさんがなんだ。俺には仕事があるんじゃないか。
 日めくりカレンダーに手を伸ばします。一枚一枚剥ぎとっていたのをやめて、十枚ほど一気に破り取ろうと力を込めます。
 ところで、『31』の紙を一枚ピリリと剥がすたび、キシオくんの顎髭は伸びます。意識はふらついて眠くなります。そして胃腸は丸一日分の食事を摂っていないかのようにきゅうきゅうしくしく泣いてしまいます。つまり、キシオくんが何枚もまとめてカレンダーを剥がしてしまえば……。
 どうなるのでしょうね?


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